プロフェッショナル&パラレルキャリア フリーランス協会

25歳で独立、30歳で起業。そして、会長へ。10代で描いたキャリアプランを体現し続けるクリエイティブアドバイザー、加藤若菜さん

こんにちは。フリパラ編集部のライター、佐藤です。フリーランス・パラレルキャリアの多様な暮らし・働き方を、取材を通してご紹介する「隣のフリーランス」企画。

今回は、フリーランスから経営者、そして会長職と、華麗な転身を遂げたクリエイティブアドバイザーの加藤若菜さんのご紹介です。常にスピーディーに進化し続ける加藤さん。その秘訣を伺いました。

プロフィール
加藤若菜(かとうわかな) 32歳株式会社ミニヨン 代表取締役・会長
1987年、福島県郡山市生まれ。10代で「25歳でフリーランスとして独立、30歳で起業」というキャリアプランを立て、持ち前の行動力によって、会社員からフリーランス、経営者、そして32歳の現在は会長職へと華麗な転身を続けている。
2017年に福岡で創業した株式会社ミニヨンが目指したのは、社員をフリーランスでも通用するように育成し、独立した元社員とパートナーの関係性を築ける会社。「社員一人ひとりが『個』として輝き、活動できる組織」など、常に理想のイメージを頭の中に明確に描きながら、会長になった現在も日々奮闘している。
WEB:https:/https://324.co.jp/
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20代で迷いなく転身してこられたのは、10代で描いたキャリアプランがあったから。

フリーランスになった経緯を伺えますか?

会社員としてSEやコンテンツディレクター、広告代理店での制作を経験した後に、2013年にWebコーディネーターとして独立しました。25歳で独立することは、19歳の頃から決めていたんです。

フリーランスになって、手はじめにクラウドワークスで自分のスキルを活かして、Webデザインを中心にHTMLコーディング、WordPress構築などWeb構築の仕事を受注していきました。ひとつずつ丁寧に仕事をこなしているうちに、気がつけばクライアント様からリピート発注やご紹介をいただけるようになっていました。

19歳の時点で、そのようなしっかりしたキャリアプランをもっていたんですね。そして、25歳で独立。それをブレずに実行できた理由って何ですか?

会社で管理マネージャーになった時に、このまま安定した収入と立場を手放していいのかな?という考えも頭をよぎりました。でも、ずっと手に職をつけて家で仕事がしたいと言う気持ちが強かったので…。そこで思い直しました。

会社の仕事が順調だと、余計に独立した方がいいか、躊躇しますよね。それでも自分の力で勝負するフリーランスを選択したんですね。フリーランスになって、クラウドワークスでの仕事の仕方がメディアから注目されたり、順調にお仕事されていたと思いますが、そこから起業に至った経緯を伺えますか。

(参考記事)

フリーの仕事が順調だった事で、逆にひとりで仕事をしていくことに限界を感じるようになったんです。一人で仕事をするには、どうしても時間に制限があります。24時間の中でできる仕事の量と売上に限界を感じたときに、もっと多くの仕事量をこなしたいと考えるようになりました。

仕事の内容が変わってきたことも要因かもしれません。

私がクラウドワークスの仕事を受注しはじめた頃は、デザイン重視の仕事も多かったのですが、だんだん安く早くできるタスク的な仕事が重視されるようになっていったんです。ですから、単価が安くても副業で仕事をしていきたい人達が増えていることも感じていました。

しかし私は副業ではなく、本業としてクラウドワークスを主戦場にしていたので、そういう状態のクラウドワークスで仕事を継続していくのは難しそうだと感じました。

ー そこで、今までのやり方を見直すタイミングと、10代で立てた30歳で起業というキャリアプランが重なったんですね。

ときどき立ち止まって軌道修正しながら、情熱と行動力で突き進む。

活動拠点を東京から福岡に移して起業されたのはどうしてですか?

福岡に、どうしても一緒に働きたい人がいたからです。それが、現副社長の橋本亜由美(当初は経理を担当)です。もちろん、東京でWebデザイン会社は飽和状態であることや、大手企業が福岡に注目していることなどから、直感的に福岡でのWebデザイン業界の伸びしろを感じたことも大きいのですが、法人化にあたり、橋本の存在無しには考えられませんでした。

一緒に働きたいと誘ったものの、橋本は福岡を離れる気がないようだったので、こちらから福岡へ飛び込んでいきました。橋本に案件の整理や管理をしてもらい、私は制作に集中する。ムードメーカーとして場の雰囲気を盛り上げてくれるので、社内外のコミュニケーションも任せています。あの時、直感した通り、橋本は私にとって欠かせない存在となりました。

首都圏に比べて雇用コストが低いことで、東京で仕事を受注して福岡で仕事を請けるフローを築けることも、魅力でしたね。

ー なんと、情熱的な…!!冷静に先を見据えて考えているからこそ、ここぞという時に情熱的に行動できるのかもしれませんね。実際に福岡で経営をして、東京と違う点や不安はありませんでしたか?

特に不安はありませんでしたが、東京とは仕事のとり方や連絡の仕方、クライアントとの距離やWeb業界の横のつながりが深いことに驚きと戸惑いを感じました。

たとえば、東京ではWebやメッセージでのやり取りが多かったのですが、福岡ではほとんどのやり取りを電話や対面で行います。クライアントとの距離をいかに近く、身近に感じて、親身に対応することが重要なのかを実感しました。

今置かれている状況を冷静に判断する分析力と、その先に進む道を見つけた時の瞬発力。その繰り返しによって、順調に見える3期目を迎えていることがうかがえます。ここからは、会長職になった経緯と、今後目指していく組織づくりについて伺います。

目指すは、『ONE PIECE(ワンピース)』的な仲間づくり。社員一人ひとりが「個」として輝きながら、補い合えるチーム。

今、会長として会社の中でどのような役割をしているのか教えてください。

クリエイティブアドバイザーという肩書きで、デザインのコンサルティングやアドバイスをしています。企業の中にはWeb担当者がいない事も多いので、社員の方に向けてセミナーをしたり、公式サイトのアドバイスやコンサルティングを中心に活動する予定です。

ー 確かに、Web専属の担当者がいない企業だったら、加藤さんのような人から自社目線でアドバイスをしてもらえたら、心強いですね。ただ、なぜわざわざ「会長」という職をつくったんだろう?と疑問が浮かぶのですが。

会社の発展のために、今はクリエイティブを向上させる必要性を感じていて、そのためには、私は経営者ではなくプレイヤーとして働くのが最善だと思いました。ただ、まだまだ社員へ教えることも多かったので、社長として経営することと、社員の育成やクリエイティブを向上させることの両立が難しかったんです。

そこで経営は役員に任せて、私は会長となって人材育成やクリエイティブ面のスキル向上に専念することにしました。会長になって活動できる範囲も広がることで、社長職ではできなかったクリエイティブアドバイザーとして、他社と関わることも可能になります。フリーランスのような動きができるので、私には合っていると感じています。

ー 会社の中でフリーランスのような働き方ができるというのは、いいですね。大きな組織編成だと思うのですが、そこに至るまで、どんなプロセスがあったんでしょうか。

創業時は、私と同じスピードとスキルを持った人材を育成すれば、会社や売上の発展に繋がると思っていたんです。でも、ミニヨンの知識や技術をスムーズに習得してほしかったので、経験者や専門知識のある人ではなく、あえて未経験者を選んで育成することにしました。

ですが、技術を覚えるスピードに個人差が出るなど、未経験からの人材育成は苦戦しました。私自身もプレイヤーとして仕事をしながら、「教えること」「仕事をこなすこと」の両立に限界を感じて、目線を変えて組織づくりを見直すことにしたんです。

そこで、新しい組織づくりは、私の「コピー」ではなく、マンガの『ONE PIECE』に出てくるような仲間をつくろうと方向転換しました。そう思えたきっかけは、現社長の橋本翔和の存在です。

橋本は営業やディレクションが得意ですが、私にとっては苦手な分野です。そうやって、私が得意な部分を優先して、得意ではない部分を補ってくれるような人材を集めることで、仕事を円滑に進められるようになると感じました。

ー少数精鋭の場合、人づくり・チームづくりが重要になってくるんですね。3期を迎えるまでに色々試行錯誤して、『ONE PIECE』をイメージしたチームに辿り着くのって、加藤さんならではのセンスですね。個性的な仲間と一緒に楽しく働いている姿が浮かんできそうです。今は会社の経営から離れているんですか?

今は、現社長に経営を任せています。私が会長になって、当時副社長だった橋本翔和が社長になるタイミングで、3人の社員にもそれぞれ役職をつけたんです。経理スタッフだった橋本亜由美は、副社長に。コーディングスタッフだった山下優華は、マネージャーに。そして、新たにライター兼カメラマンの赤坂 太一を迎えました。

それによって、一人ひとりが責任をもって自発的に仕事をするなど、嬉しい変化がありました。頼もしいですね。

ミニヨンとして制作されたHPのひとつ。

 

ー  フリーランスから経営者、会長職になってどのような心境の変化がありましたか?

フリーランスの時は、とにかく稼ぐことを念頭に仕事に没頭していました。でも一人でできる事の限界を感じて、創業して社員をもつようになってから人に仕事をお願いできるようになって、気持ちが楽になりました。会長になってからは、常に私にできることは何か?という視点で考えています。

ー  最後に、今後目指していることを教えてください。

あるインタビューをきっかけに、私が目指している組織が『ティール組織』だと知りました。

個々を尊重して、それぞれがセルフブランディングを行い、フリーランス集団のような会社をつくる。そして、会社全体として同じベクトルで目標を持つことができれば、軸はブレずに会社経営をできるようになります。

まだまだ、手探りしながら模索している部分も多いですが、この組織づくりこそが、他の制作会社と一線を画するものになるのではと思っています。

(インタビューここまで)

理想の組織はいつ頃できそうですか?の問に、すぐに「1年後には実現できると思います。」と返ってきました。インタビューをしはじめた時は、常に一歩先をいくプランを迷わず実現してきた加藤さんに対して、少しだけ自分の中の劣等感が呼び起こされるような感覚がありました。

でも実際は、迷ったり悩んだり、沢山の試行錯誤を繰り返して仲間に支えながら辿り着いたからこそ、放っているオーラだったのだと知りました。

フリーランスとして、一人で仕事をしている人も多いと思います。ですが、もし、どんなに自分が頑張っても、どうしようもない時や限界を感じた時は、信頼する仕事仲間に相談したり、チームを組むことで新しい可能性が見えてくるかもしれません。

今回の取材を通して、改めて「仲間」がいるありがたさや、可能性を考えるきっかけを与えてもらったように思います。

加藤さん、ありがとうございました。

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